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「馬の耳に念仏」というたとえがあります。
「馬の耳元で念仏を唱えても馬には理解できないから無駄だよ」ということらしい。
でも本当にそうなの・・
「馬の耳に念仏」は、
東からの心地よい風が耳に吹いても馬は春を感じないという中国の「馬耳東風」が
日本に伝わり、意味が分かりにくい東風が念仏に変わって広まったらしい。
「馬耳東風」は、李白の言葉で
「世人開此皆掉頭 有如東風射馬耳」
浮薄な当世では何とか出世しようと王侯貴族に媚びへつらうばかりで
一向に詩人のことばを聞いても馬耳東風である、・・・・・
李白は「出世のためには聞き耳をたてるが、詩人の言葉には耳を貸さない」人々を
「東風が吹いても春を感じる気配が無い馬の様子」に比喩したようだ。
ところがところがである
「馬は東風が吹いても春を感じる気配がない」という言葉の語源は、
聖徳太子が残した格言「馬の耳に風」になるだそうだ。
のどかな春の中を愛馬にまたがり遊歩していた時に、ふと馬の様子に気づいて
述べた言葉のようだ。
それは自分は春の宴を楽しんでいたが、馬はご主人様に万一のことがあっては
いけないと細心の注意を払って歩を進めていたということだ。
馬は耳に東風を感じても、浮かれることなく周囲の状況を判断するために
耳を使っていたのである。
これが「馬の耳に風」
実は馬は東風には目もくれず周囲の状況に聞き耳を立てていたのである。
今では「馬の耳に風」も「馬耳東風」も「馬の耳に念仏」も同義語として
取り扱われているようだが意味は全く異なるようです。
「聖徳太子」、「李白」、「俗人」
見る人によって「馬の耳」って随分と違うものなのですね。
はは、
下手な念仏は馬に笑われてさえいるのかも。